「あっ今田君!」
「あっ松本先生・・・ごきげんよう」
職員室の前でばったりと顔を合わせたクラスの問題児。ひょいっとバックステップを踏んでその場を離れようとするのを、私はすかさず手首を掴んで引き留めた。
「ちょっといい? 中で話しましょ」
「はい、また赤点を取りました。すみませんでした先生!」
間髪入れず、ぺこりっと頭を下げてくる。用件を察して先手を打ったか。
「英文読むの、どうしても苦手なんですよ僕~」
「なら次の中間テストの前に、英語の先生のとこに沢山質問しに行きなさい。分からないとこを見つけたらその都度」
「はあい、そうします、そうしますよ先生」
にへらっと笑うその顔に不安しかない。
「・・・本当に行くんでしょうね? 面倒くさがって分からないまま放っておいちゃダメよ」
「行きますよ~。だってほら、松本先生に教わったお陰で今回数学は赤点じゃなかったじゃないですか~」
日々の小テストの結果があまりにあんまりで、個人的な補修の時間を強引に設けたのだ。半べそをかいていたが、逃がさなくて本当に良かったと思う。
「同じ系統の問題は正解できてたわ。教えた公式、何個かはちゃんと覚えたみたいね」
「あっ分かってくれました? さっすが松本先生~」
「こら、話を戻すわよ。次の中間テストに向けて、具体的にどんな対策を・・・」
「あの~松本先生」
不意に、背後から声が掛かった。職員室のドアから、クラスの副担任が顔を覗かせている。
「ちょっとよろしいですか? 教員全体にお話があると・・・」
「あっ、そういうことなら僕はこれでっ」
脱兎のごとく曲がり角に消えた問題児の背をひと睨みし、私は職員室の中に戻った。
全教員が席を離れ、職員室の奥で円形に集まってこちらを見ている。完全にお待たせしてしまっているこの現状。申し訳なさすぎる。
「すみません、遅くなりまして」
「はい、では全員揃ったようですので」
校長先生が話し出す。その隣の人物を見て、私は話の内容を察した。思わず、両手を前でぎゅっと握りしめる。
「既にご存じの方もいると思いますが、古川先生が今年度で退職されます」
数名の教員が静かに息を呑む。当の古川先生は、白いひげに温厚な笑みをたたえて軽く頭を下げた。
「今までお世話になりました、と言うのはまだ少し早かったですかね」
古川先生。新任の頃からずっとお世話になった大先輩。主担任の古川先生の元で、私が副担任を務めたのが始まりだ。副担任として古川先生のサポートをするはずが、逆にトラブルなどのフォローされたことは数知れず。あの頃から今日に至るまで、教師としての心構え、生徒との接し方など数々のことを教わった。
『古川先生・・・生徒が話を聞いてくれないんです・・・』
『松本先生。まずは、生徒の話を聞く姿勢を見せましょう。生徒のことをよく知るんです』
退職されることは、同じ3年担当の私達は既に知っている話だ。なのに、改めて聞いた今でも心がさざ波立つ。
「これから残りの数か月、私の最後の教員人生です。ここにいる誰よりも、沢山の生徒と一緒に勉強したりお喋りしたりするつもりです。そしてできれば、卒業式で彼らと一緒に証書をもらいたいですね」
朗らかに笑った古川先生。少ししんみりした空気がほぐれ、その会合は解散となった。
3月。
「母さん、来月からはもうお弁当大丈夫!」
良介が流しに弁当箱を下げながら言う。
「キャンパスに食堂があるんだって。そこで友達と食べるつもりだから」
「そう、分かったわ」
2階に上がっていく息子。私は洗い物をするために流しに向かう。
受験が済んで、良介も4月からは無事大学生になる。早いものだ。中学では部活動のキャプテンをして、高校生になったらすぐバイトを始めて。少しずつ少しずつ、親の庇護下から離れていく。
そしてやっと、二十歳が近づいてきた今。あの子はお弁当を卒業した。幼稚園から高校卒業まで、本当に長かった。
旦那は社食だし、これでお弁当は私だけ。肉料理を減らして、ヘルシーに週3魚とかにしてみようかな。
「もう注文を聞かなくてよくなるしね・・・」
『今回の炊き込みご飯もめちゃ美味かった! 次作るときは2種類やってよ! 食べ比べしたい!』
『簡単に言ってくれるわね・・・』
『明日か明後日はハンバーグが良いな! あのチーズ乗っけたやつ!』
『明日は無理よ。明後日ね、覚えてればね』
つい最近まで交わしていたこんな会話もこの3月までで、4月からはぱったりなくなってしまうのだろう。
毎年、慣れ親しんだ生徒が卒業していくこの節目の時期。今年は、お世話になった人が去り、テーブルに並べていたお弁当が一つになる。
「寂しくなるわね・・・」
冷たい水道水で弁当箱を洗いながら、私はひとりそっと溜息を吐いた。
4月。
「松本先生~今年も宜しくお願いしますね」
「今田君・・・」
新3年B組。出欠番号1番の席にかしこまって座っていたのはあの問題児だった。
「いやー嬉しいですよ。また先生が担任なんて」
「今年こそ、卒業させるからね・・・!」
危惧していた通り留年生になってしまった彼を前に、私は溜息を吐いたのだった。

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